私は浪江町出身である。現在の浪江町の状況については多くの方がご存じだと思うのでここで詳しくは述べないが、浪江町名物のあの太い焼きそばについてふれてみたい。
私が生まれ育ったのは、町の中心部から東に約6Km離れた漁村地区である。子どもの頃はお出かけといっても町の中心部に行くのがほとんどであり、そこで食事をするとなると大体は食堂でラーメンか焼きそばを食べるというのが決まりであった。
そもそも、浪江焼きそばは、昭和30年頃に労働者のために食べ応えと腹持ちのよいものを提供したいということで某食堂で誕生し、それが町内の食堂に広がっていったものらしいが、私はなんと高校を卒業するまで、日本中どこに行っても食堂で出される焼きそばは太いものだとずっと思っていた。「インスタントの焼きそばは細く、食堂で出される焼きそばは太い」と信じ込んでいた。お出かけして食べる食堂の焼きそばはどこでも太かったからである。
自分が食べてきた焼きそばこそが普通じゃないと気づいたのは、進学して地元を離れて、そこで焼きそばを何回か注文することがあってからであり、今から思えば、まるで「サンタさんは本当はいない」とだんだん気づいていく子どものような感じであった。
それから、10数年経って、私は県庁内で地域振興を担当する部署に勤務することとなった。そして、地域づくりの考え方を学んでいくうち、心に浮かんできたのがあの太い焼きそばであった。あの個性的な焼きそばであれば、喜多方ラーメンのように“売り”なるのではないかと考えた。そして、町役場職員をしている親友と飲んだときに「あの太い焼きそばは他にはない。これを全面に打ち出して町づくりを行うことができるのではないか。」と話してみたが、「あんなの駄目だ。そんなのできるわけねーべ。」と全く相手にされず、その後、私もその主張をすることもなく時が過ぎてしまった。これは地域づくりでよく言われる「地域の宝は地元では見えにくい」の典型であったと思う。(それにしても、1回ダメだと言われたぐらいで、話を引っ込めてしまった自分が情けない...。)
その後、浪江焼きそばは町商工会議所青年部の頑張りによって「太っちょ焼きそば」として大きくPRされ、B-1グランプリに入賞するなど有名になったのはご存じのとおりである。震災で町全域が避難を余儀なくされた後も、「太っちょ焼きそば」はイベントの屋台など活躍しているので見かけた方は是非ご賞味いただきたい。
残念なのは浪江焼きそばの歴史を背負ってきた代表的な食堂が避難先においても再開できていないことである。屋台の焼きそばの味もそれはそれでよいのであるが、昔食べた味が体に染みついている者にとって、それが食べられないのは寂しい限りなのである。
「ソウルフード」という言葉を聞いたことがある人も多いと思う。日本では、郷土料理とほとんど同じ意味で使われている。ただ、「郷土料理」には地元食材・伝統・自然といった要素が欠かせないが、「ソウルフード」の場合はそれは必須ではなく、自分を形づくってきた好きな地元の食べ物という捉え方の方がしっくりくるような気がする。
そう捉えた場合、多くの浪江町民及び浪江町出身者にとって、やはりあの焼きそばはソウルフードだと思う。少なくとも、私にとってはそうであり、今でも時々食べたくなる。そうした食べ物で大事なことは昔の味がずっと保たれていることだと思うが、前述のとおり、それが叶わない浪江町の現状はやはり寂しいのである。
現在、浪江町は区域再編が行われ、人口の8割が住んでいた地区で日中の立ち入りが可能となり、再開した事業所もわずかだが出てきている。復興にはまだまだ時間がかかるが、将来、町中で再開する食堂も出てくると思う。そして、そこに普通に皆が集って、昔のままの焼きそばを味わいながら世間話ができるようになったとき、復興の1つのステップがクリアできたと言えるのだと思う。
※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません
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