2015.1.28
  「育てる」

                                         副所長 伏見 淳


  我が家の猫の額、いやネズミの額ほどの庭には、数少ない樹木がある。

 平成8年に居を構えてから、何もなかった庭に自ら植えたもの。山砂を掘ると大小の石が現れる状態の中に多少の配合肥料や土を入れながら、ど素人が植栽したものである。
 そのうちの一つが小さな鉢植えで売られていた百日紅。県内を車で出張していたおり、家庭の庭先に咲いている百日紅が綺麗だと感じていたことから、ただ欲しくなり、どんな枝ぶりのものが良いかなど何も考えずに選んだ結果、中心となる幹のない枝別れしたものを購入した。

 成長するにつれ、生えてくる枝は真っ直ぐ伸びることはなく、毎年秋の剪定は悩ましい。3本に根分けしてみたが、順番に枯れていき現在はかろうじて一本が残っている。
 今も相変わらず容姿は褒められたものではないが、毎年黙々と、いや華々しく?紅い花をつけてくれる。
  昨年は例年より早く咲き始め、期待していたところ、花弁も葉も白くなり始め、薬を与えたが、改善しないことから、枝を全て切り落とした。
 その後2回目の新芽から花をつけ、何とか二度目の鑑賞ができ満足。いつもよりお礼肥を多く与えました?!

 もう一本はドウダンツツジ。これも購入時は何も考慮せずにランダムに二本を選定。
購入後早い段階で、やはり一本は原因不明のまま枯れてしまったが、残ったものはそれなりに幹も太くなっている。こちらは、春先の白い花と、秋に見せてくれる紅葉がうれしいもの。年が経つに従い、紅葉も鮮やかさを増しており、ついニンマリです。
 ただセンター周辺の散策中に様々なドウダンツツジを鑑賞できることから、従来のただ綺麗だけではなく、やはりその枝ぶりが気になっている。どうしたらあのような容姿にできるのか、このところ熟慮?中である。

 樹木は声で感情を表さず、しかし季節に応じた表情で応えてくれる。春には新芽を芽吹き、それぞれの適期に花を開き、秋には紅葉・落葉して、冬には次の芽吹きに備える。

 こちらは、自分の願望に応えてもらえるよう手をかけているつもりだが、なかなか彼らには通じないようだ。

 ところで、人を「育てる」にはどうする?
 植物とは違い、感情を声で、言葉で表すことができる、そしてお互いに意見を言えるもの同士である。

 最近のニュースを見て、聞いて驚くことばかり。
 自分の思い通りにならないといとも簡単に人を殺す、いじめで自殺に追い込む、様々な知能犯による弱者いじめ、など・・・・そしていろいろな迷惑行為まで。

 そこには人を敬う、他人を思いやるといった気持ちが欠けていると感じる。

 親、地域、学校、社会と人を育てる場、機会があるのだが・・・




※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません