近年、ベストセラーとなっている藻谷浩介、NHK広島取材班著『里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く―』に代表されるように、里山の魅力が再評価されつつある。
里山とは、人手が入った山や丘陵地などをひろく意味しているが、わが国の高度経済成長期以降、これら里山に住む多くの若者らは、金の卵として大都市に出た。また、農産物の自由化、安い外材の輸入増加などを経て生産環境は悪化し、その経済基盤は弱体化しつづけた。さらに今日では、地方人口とりわけ中山間地域の人口減少、空き家の増加そして労働力の高齢化などにより耕作放棄地が拡大しており、里山の存立基盤じたいが危機的な状況に面している。
そんな環境のなかで、近年の自然環境やゆとりライフ志向、安全な農産物を重視する都会に住む若者らの移住などにより、明るい兆しも見られつつある。
福島県は、阿武隈高地、磐梯・会津高原など里山の宝庫であり、これらの地域では歴史的に農林業や牧畜・養鶏などが盛んに行われ、集落の催し物や祭り・神事などの各種行事でにぎわってきた。しかし、やはり上記したような環境変化により、今日ではきびしい状況を迎えてはいるが、林業就業者は増加傾向にあり(注1)、オーガニックな自然志向の農産物生産や木材や農産物を利用したバイオマス発電、地熱や風力を利用した発電なども、各地で行われるようになっている。
ありし日のころのにぎわいを復活させることは無理としても、里山が持つ防災・貯水や環境保全機能を維持しつつ、住民のみなさんがふつうに生活できる里山を維持することはできないかと思う。
しかし、ここでしっかりと押さえなくてはいけないのは、里山には里山としての風土に根ざした生活スタイルや文化があるはずであり、たんに移住人口を増やすとか企業誘致すれば良いというものではないのではないか。里山ならではの魅力や価値観、生活スタイルを踏まえつつ、潜在的な魅力をも生かした里山振興を考える必要性を感じていた。
そんなことを考えているときに、内山節著『「里」という思想』(2005年発行)を読む機会を得た。内山さんは立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科の教授だが、群馬県の山村である上野村に住んで、ローカルな生活を実践している。
本書は2000年1月から約2年間、信濃毎日新聞に「哲学の予感-二十世紀から二十一世紀へ」というテーマで連載したコラムを基にしている。ちょうどこの間の2001年9月11日にアメリカでいわゆる「9.11テロ」があったことから連載が延長された経緯もあり、アメリカ文化に対する反省や批判も盛り込まれてはいるが、主たるテーマは、わが国の「里」(里山と理解して良いだろう)を立脚点とした近代・現代の文明批評である。
内山さんは、同書の冒頭に、私たちはこの世の中のなかで働いたり、消費したり、競争と対立の中に身を置きつづけているというような近代的なものに、急速に厭きてきた気がする、と書いている。さらには、科学技術の進歩や開発、発展、合理的な判断というような言葉も色あせてみえるようになっている。歴史の何かが終わろうとしている、その何かの正体は明らかでない。はっきりしているのは、それは根源的な何かだ、と問うている。
全体を読み終えると、それは西欧流の進歩史観(時代を経るにしたがって、人々の生活は豊かになるという考え方)や、自然の豊かさを忘れた人間中心主義の考え方を批判していることがわかる。
筆者なりにまとめてみると、その根源は歴史的伝統を持たずに発展してきたアメリカにみられ、今日でもアメリカは経済、政治、軍事、情報などのすべてを駆使して、世界のアメリカ化を要求している。そして、とりわけ戦後、アメリカの背中を追い続けてきた日本もその意味では同列に並んでいる。
ヨーロッパ大陸から移住してきたアメリカ人と、語り継がれてきた過去を捨ててしまった日本の私たち。この両者には進歩をめざして走り続ける以外に存在感が発見できないという共通の心理がある。つまり、近代的社会はローカルであることを解体しながら、普遍的な世界をつくろうとしてきたことが、精神的に安定しない社会をつくりだしている。
さらに、近代社会を象徴する自由、友愛、平等といった理念も、人間だけに与えられたものであり、自然の世界を破壊する役割を果たした。この人間中心主義により、自然と人間の間に成立する自由や、風土と人間の間に生まれうる自由は、視野からはずされてしまった。
その結果、都市住民にとっては、未来に向かって走り続けることが必要となり、それが現代の資本主義社会である。ここでは、過去は乗り越えられるものであり続けることになり、そうなればなるほど、私たちは自分自身を見失った。漂流する個人でしかない自分に気づくようになったのだ。
一方、上野村の畑を耕していると、村人の歴史を感じるときがある。畑には歴史があり、畑をめぐる物語がある。自分の手が納得している世界、自分の命が納得している世界、こんな世界を20世紀は大事にしてこなかった。東京の住宅地には、そういう世界を感じさせるものはない。
私たちは、歴史的に自分が存在する里をもち、生活してきた。このような過去の人間たちの営みがみえる場所が、風土であり里である。私たちは、その里からすべてを組み直す必要がある。里というローカルな世界から、近代を解消させるリアリズムを手にすることはできないだろうか。
たしかに、いまは何もかもがあって、良い時代である。しかし、都市に住む住人は、農業ができるのだろうか。餅がつくれるのだろうか。森を利用する技を身につけているだろうか。人間のすばらしさが実感できているのだろうか、と問うのだ。
なお、内山さんのいう「里」とは、かならずしも村を意味していない。それは自分が還っていきたい場所、あるいは自分の存在の確かさがみつけられる場所をさしている。
では、内山さんのいうローカルな世界、ローカリズムとは何なのか。それは、その後2012年にまとめられた『ローカリズム原論』にくわしく書いている。
ローカリズムとは、小さい単位の共同体、共同の世界を「われらが世界」としてつくり、われらが世界を基盤にして世界を変えていく、そういう動きである。たとえば、イタリアのスローフード運動(注2)もそこにある。地域の食材と食事とともにある人のつながりを大事にする。それはまさにわれらが社会を大事にすることである。
このような関係の網によって結ばれた世界をローカルな世界と呼び、そこにこそ人間たちの生きる基盤をつくらなければならない。このローカルな世界を共同体といってもよいし、コミュニティとしてとらえてもかまわない。
自分たちの生きている風土をしっかり知る。そこにはかけがえのない自然があって、かけがえのない人間の営みがあって、かけがえのない風土が形成されている。そういうものの深さとか大切さがわかってくると、世界の人たちがみな同じようなかけがえのない世界で生きていることに気づく。
それゆえ、ローカル性にこだわることは、閉じられた世界で暮らすことではなく、大きな世界と交流するうえでの自分の足場をもつということにつながる、とも書いている。
ちなみに、内山さんは、東日本震災後の復興活動について、震災後には義援金や救援物資を送ったり、ボランティアに参加したり、被災者と地域外の人がいっしょになって仕事をつくりだそうとする動きがある。ここに生まれつつあるのは、地域を軸とした新しい価値の共有の世界である。
このような「関係性」を基盤として地域をつくる。それは市場原理を超えた経済活動であり、同時に、このことのなかにコミュニティの成立がある。そういう価値を共有しながらひとつの社会原理をつくりだそうとする試みが動きはじめている、として高く評価している。
転じて、冒頭に記した「里山資本主義」を取り上げてみると、里山資本主義は、資本主義のサブシステムとして語られている。里山が持つ山林や農地、景観などの地域資源を活かして地域振興を進めようという考え方である。その具体例として、新しい建材としての合成材(CLT)の利用、端材を活用したバイオマス発電、自然資源を活用した農業やいわゆる6次化商品の開発、古民家の再利用などがあげられている。
従来より、農林水産業や観光・レクリエーション活動などで、人間社会と自然との接点となっている里山の魅力はいろいろと語られてきたが、同書ではこれらの里山が持つ魅力をベースとしながらも、新素材や新エネルギーの供給の場として再評価している視点が新しい。現在の資本主義社会のなかで失われていたり、気がつかなかった里山資源の有効活用を提起している。
このようにとらえてみると、ローカルな価値観を資本主義社会のワク組みのなか(つまりサブシステム)で提言したのが、「里山資本主義」の考え方であり、そこから資本主義社会というワク組みをはずした試みが、内山さんが提言しているローカリズムではないかと感じた。これは視点(立脚点)のちがいであり、どちらが良いとか悪いとかというものではないだろう。
しかし、資本主義社会の基本的な性格が、自由経済に基づく利益追求、大量生産・大量消費、効率的な勤務・労働形態などにあるとするならば、根源的なところで、ローカリズムとは相反することになろう。そういう意味合いを込めると、里山のあるべき生活スタイルや文化の姿としては、「里山ローカル主義」とでも呼べる考え方として提起できるのではないか。
つまり、それは市場主義から人間性、共同体としての村の生活を取り戻す生き方としてとらえたい。このような立場に立つと、「里山ローカル主義」は、資本主義社会(現代社会)のサブシステムではなく、むしろメインシステムとして位置づけられるべきではないか。言いかえれば、里山ローカル主義にもとづく生活スタイルや文化を基調とした資本主義社会がイメージできる。
もちろん震災後の復興活動について既述したように、都市部においても、このようなローカリズムの精神を生かすことが可能である。
さらに、筆者は『里山資本主義』のなかに紹介されている、里山がめざすべき将来像として千葉大学の広井良典教授が語っている「懐かしい未来」という言葉に注目したい。これは、筆者なりに理解すれば、地産地消のような形で培われてきた伝統的な生活スタイルや文化をベースとして活かしつつ、これからの時代を先取りするような(環境にやさしい)新しい科学技術などを導入することで、新しい未来をつくっていくというほどの意味ではないだろうか。
科学技術は、目的ではなく手段であるから、ローカリズムの実現や推進に向けて科学技術を活用することは、有意義であると考えたい。その際に注意すべきは、地球環境や自然環境の保全と調和した科学技術の利活用ということだろう。その一例がCLTであったり、バイオマス発電などとして位置づけられるのではないか。
以上のように考えてみると、資本主義社会の価値観に組み込まれることなく、自然環境と共生しつつ、近隣やコミュニティがお互いに助け合う関係性を重視した生活や生産活動を実践することが、里山での生活スタイルや文化の特長といえるのではないか。そして近年、その魅力に気づいた若者たちらが、里山や地方に飛び出しているということではないか。
そう考えると、里山を中心として、現代社会がめざすべき生活スタイルや文化が見えてきたように感じた。
(以上の記載は、筆者の個人的な理解や解釈であることを付記しておきたい。)
(注1) 平成22 年10 月1 日現在の福島県の林業就業者数は2,181 人で、平成17年の1,755人から増加している。(国勢調査による)
(注2)スローフード運動とは、1986年、イタリアでファーストフードへの反対をきっかけに起こった食を中心とした地域の伝統的な文化を尊重しながら、生活の質の向上をめざす世界にひろがる運動。3つの原則として、GOOD(品質)、CLEAN(環境配慮)、FAIR(公正な価格・取引)を掲げている。
参考資料 内山節『「里」という思想』新潮社、2005年 内山節『ローカリズム原論』農文教、2012年 藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く―』角川書店、2013年 吉岡正彦「里山の魅力を見直す」(本欄コラム、2013.11.21)
http://www.f-jichiken.or.jp/column/141/yosioka141.html
吉岡正彦「進化する里山資本主義」(本欄コラム、2014.6.18)
http://www.f-jichiken.or.jp/column/164/yosioka164.html
※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません
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