先日書いたコラム「里山ローカル主義の提案」(注1)に続き、今回も内山節さんの本を話題にして書いてみたい。
これまでに内山さんの本を何冊か読んだが、そのなかでもっとも記憶に残った言葉として、このコラムのタイトルにした「温かいお金、冷たいお金」がある。これは『怯えの時代』(新潮社、2009年刊)のなかに「冷たい貨幣か、温かい貨幣か」として書かれていたものだが、おもしろい言葉だと思った。はじめに、筆者なりにその主旨を紹介したい。
今日、我々の社会に出回っているお金の大半は、「冷たいお金」である。貨幣の価値以外の何ものも付与されていないお金を、そう呼びたい。いま仮に自分のポケットに3千円が入っていたら、それは冷たいお金である。なぜなら3千円という交換価値以上のものが付与されていないからだ。
ところが、あるおばあさんが、孫が喜ぶ顔を想像しながらほしがっていた物を3千円で買ったとしたら、それにはお金では買えない価値が付与されているので、「温かいお金」と呼びたい。
もう一例として、成り済まし詐欺(振り込め詐欺)を取り上げる。高齢者(親)が生活するのに必要な電気代、ガス代などの生活費は「冷たいお金」である。しかし、あるときわが子から電話がかかってきて、困っているので金を振り込んでほしいという。そこで、親はふだん滅多に助ける機会がない子どもを助けたいと思い、お金を振り込んだとしたら、それは「温かいお金」である。
事の善悪は別として、他人に対してお金をつかうことに喜びや楽しさを感じるとき、それは「温かいお金」を使ったことになる。反対に、国際金融市場でマネーゲームに利用されるようなお金は「冷たいお金」である。それは、貨幣価値しか語らないからである。
つまり、「温かいお金」とは、人と人の関係のなかで使用されるお金、あるいは人と人の関係のために使うお金のことである。
このような人と人の関係は、特定の個人的な関係とは限らない。近代以前の流通に用いられた貨幣には、「温かいお金」が相当程度含まれていたのではないか。なぜなら、昔の流通は人間と人間の関係を介して行われていた。
たとえば著者が暮らす群馬県上野村は、かつては養蚕の村、生糸の産地だった。生糸の流通は村のなかで暮らす仲買人と村の外から来る仲買人によって行われていたが、そこでは人間関係の信頼があってこそ成り立っていた。農家にとっても、双方の流通業者はなくてはならない存在であるから、このような取引では関係者間でいろいろな配慮が行われて、お金の冷たさが軽減されていたのではないか。
また、無尽(地域の仲間による庶民金融)が果たした社会的な意義も大きい。1929年の昭和恐慌時には、全国的に無尽がひろがった。お互いが信頼し合える範囲の庶民同士がお金を貸し借りすることで、恐慌をしのいだのだ。このような困ったときにお互いが助け合うシステムには、「冷たいお金」を「温かいお金」に変える庶民の知恵があった。
無尽は、いまでも山梨県や沖縄県などでは続いている。そして、無尽と同様のことが「講」とも呼ばれ、頼母子講、涅槃講、地蔵講などとして、庶民の間で浸透していた。このような「温かいお金」は、自分の存在を包む関係がみえているローカルな世界にしか生まれない。
そして、内山さんは問う。「冷たいお金」だけで支配する社会のなかで、私たちは幸せになれるだろうか。現代に生きる私たちは「冷たいお金」に振り回されるばかりであるからこそ、「冷たいお金」を「温かいお金」に変えていく必要があるのではないか。
そのために必要なのは、人間が自然とともに自分たちの力で生きていると感じられるようなローカルな世界である。それは、上記した無尽や講にみたような、お互いが助け合うという共有された思いである。さらにいえば、地元の山神や水神などに祈りながら自分たちの生きる生命世界を大切にしてきたという共有された思いでもある。
ローカルな世界、ミクロな世界、里の世界、どんな言葉を使っても良いが、そのような「生命が結び合う確かな世界」をつくる必要がある。それを実践する方法は、人間と自然との、あるいは人間同士の連帯(結びあい)ではないか。
連帯するために知恵を使い、時間を使い、お金を使うことのできる人間が、そのことによって共有された世界を築こうとする人間だけが、現代とは違う未来を見ることができるのだ。
およそ、こんな主旨かと思うが、同じお金でも使い方しだいで「冷たいお金」と「温かいお金」とに分ける発想が、おもしろいと思った。さらに、「冷たいお金」を「温かいお金」に変えていく必要があるという論理展開にもなるほどと感心した。そして、その結論としては、先日のコラムで取り上げたローカリズムの必要性につながっているのだ。
しかしながら、とりわけ現代の都市生活では、自治会や町内会あるいは隣近所であっても、連帯の関係をつくることは簡単ではない。このことは、内山さんもたびたび指摘しているように、さまざまな意味で個人に分断された現代の資本主義社会のむずかしさにつながるが、そうではあっても連帯関係をきずこうとする努力に希望を見いだしていると理解した。
このような議論は、いま風にいうと、ソーシャルキャピタルの議論に似ているような気がした。ソーシャルキャピタルは社会関係資本と呼ばれているが、さまざまな集団や社会における人間関係をつなぐ試みと表現することができ、本稿の視点でいえば地域社会でのきずなの強さを意味している。
ソーシャルキャピタルが強い地域ほど、自立的な地域運営が上手くいっているとみなされており、そう考えると、「温かいお金」とはソーシャルキャピタルの強化につながるお金の使い方ともいえるのではないかと思った。
そこで、考えてみたいのは、はたして福島県民は、「冷たいお金」と「温かいお金」のどちらの使い方をしていることが多いのだろうか。
とはいっても、これを実証するのは難しい。県民一人ひとりにどのようなお金のつかい方をしているのかを聞いたり、調べることは簡単ではない。しかし、たとえばつきあいや冠婚葬祭に使う金額の大きさなどは、地域における人間関係の強さをあらわす一指標になるのではないか。
そう考えて、国の統計資料から福島県の交際費や冠婚葬祭支出額を調べてみた。すると、県民の年間収入に占める交際費の割合(0.58%)や1件あたりの挙式及び披露宴費用(3.8百万円)は全国(都道府県)で8位、そして1件あたりの葬儀費用(1.8百万円)は全国5位であり、全国的にみて福島県は交際費や冠婚葬祭の支出額が大きいことがわかった。(注2)
このようなデータから、福島県民は全国平均と比べて、周囲との人間関係や地域でのつながりを大切にしていると推定しても良いのではないか。その背景には、おそらく昔から農業を中心に第一次産業が盛んなことから、田植えや稲刈りの際に集落単位で共同労働する機会が多かったというような歴史的な経緯などが影響しているのではないかと考えたが、このような特長は福島県民の大きな宝といって良いのではないだろうか。
東日本大震災や東電の原発事故から3年半以上が経っても、その被害や影響に悩ませられている今日の状況ではあるが、せめて「冷たいお金」から「温かいお金」に変えていく使い方を意識しながら、分断されている地域社会やコミュニティの維持・強化につなげたいものだと思う。
(以上の記載は、筆者の個人的な理解や解釈であることを付記しておきたい。)
(注1)吉岡正彦「里山ローカル主義の提案」(本欄コラム、2014.9.24)
http://www.f-jichiken.or.jp/column/176/yosioka176.html (注2)交際費は総務省「平成21年全国消費実態調査」(家計収支編・都道府県別単身世帯表より作成)、挙式及び披露宴費用、葬儀費用は経済産業省「平成22年特定サービス産業実態調査」(都道府県別統計表より作成。なお和歌山、徳島、香川、鹿児島の4県の挙式及び披露宴費用は秘匿数字のために不明)より算出した。
参考文献 内山節『怯えの時代』(新潮社、2009年刊)
※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません
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