ある書店にて何気なく本棚を見回しているときに、このコラムのタイトル『福島が日本を超える日』という本が眼に止まり、瞬間的に買ってしまった。きっと日ごろから、東日本大震災と原発事故で打撃を受け、ゼロ(マイナス)から再スタートしている福島が立ち直るときは、これからの日本をリードするような県をめざしたい、などと考えていたためだろう。
そんな問題意識のもとで、これまで筆者も関連するコラムをいくつか書いてきたので、どんな内容が書かれているのか、楽しみに読んでみた。
著者は、浜矩子、白井聡、藻谷浩介、大友良英、内田樹の5名で、たびたびマスコミなどで話題になるそうそうたるメンバーだ。まえがきによると、この本は、生業訴訟(注1)として進行中の裁判の原告(原発事故により仕事を奪われた皆さん)を対象として、2015年3~11月の間のほぼ2か月ごとに実施された講演会の記録とのこと。
つまり、上記した5人による講演集なので、とても読みやすい。そして、たしかにタイトルに負けないおもしろい内容だと感じたので、簡単に紹介したい。
はじめに、経済学者である浜さんの「原発再稼働で日本経済はよくならない」と題する講演では、人間を幸せにしてこそはじめて経済活動の名に値することを出発点としたいとする。しかし現実の日本経済社会にはブラック企業があり、原発も再稼働している。
そうだとすると、経済合理性とは何かをはっきりさせる必要がある。そのためには満たされるべき3つの要件があり、1つは人間を幸せにすること、2つは恐れを知ること、3つには成長神話に惑わされないことである。
第1の要件はわかりやすいので省略するが、第2の要件は、たとえば福島の原発事故で、我々はどれほど恐ろしい状況を経験したか。コントロールできないようなものを使うことに、経済合理性はないとする。
そして第3の要件に関しては、なぜみんなは「成長」という言葉に弱いのかと問う。それは成長という言葉のなかに、進歩というニュアンスが含まれているからだ。
人が成長するというと、より良い状態になったという意味がある。そこで、経済成長と聞くと、経済が良い状態になるように解釈してしまう。しかし、経済成長には、そういった質的な評価はなく、単に規模が大きく、あるいは小さくなるだけのことである。それゆえ本来ならば、経済拡大率、縮小率という言葉を使えばいい。
では、経済活動の本来の姿とはなにか。その1つは、孔子の言葉にある「己が欲するところに従えども、矩(のり)を越えず」である。その意味は、人間は自分の思うように行動して良いが、しかし矩(社会規範、行動倫理)を重んじる必要がある。つまり欲望と規範・倫理とのバランスが大切で、決して人を不幸にしないこと。
もう一つは、アダム・スミスの言葉にある「共感」であり、人の痛みを自分の痛みとして受け止めることができることが、経済活動である。
しかし、いまの経済活動は、その3要素といわれる人、物、金のなかで、金が人と物を振り回してしまっている。国民一人ひとりの暮らしや中小企業を考えるのではなく、大きいもの、強いものが優先される富国強兵路線である。
このままだと金持ちは余裕があるが、金を持っていない人は政府からサポートを得られないことになる。そこで、少子高齢社会が進展するなかで、お互いに手を差し伸べられる社会をつくるために知恵を出していくことが必要だ。
そのためには、道具として耳、目、手を使う必要がある。つまり、人の言うことをよく傾聴する耳、人のために涙することができる目、そして、人を救いあげ、抱きしめるために差し伸べる手である。この3つがあれば、鬼に金棒だと説く。
つぎに、社会思想を専門としている白井聡さんの「福島第一原発事故と永続敗戦」 によると、福島での原発事故を大きなきっかけとして、『永続敗戦論-戦後日本の核心』(太田出版、2013年刊)を書いたという。
白井さんの言う「永続敗戦」とは、日本は第二次世界大戦に負けた昭和20年以来、ずっと敗戦状態にある。それは日本がいまだにアメリカの言いなりになっている事象に象徴される。
あるいは、「敗戦」を「終戦」としてごまかしている日本の指導者層にも、問題がある。その一例としては、昭和20年8月15日は、天皇が敗戦を国民に告げた日であるのに、日本ではその日を終戦記念日と称している。国際的な常識では、本当の終戦はアメリカの戦艦ミズーリ号の上で外務大臣重光葵が調印し、日本が正式に降伏した9月2日である。
また、戦争を導いた指導者層に問うと、誰もがじつは戦争には反対だったという。こうした責任を回避しようとする国家指導層の体質を、政治学者の丸山真男氏は「無責任の体系」と名づけた。
このように負けを認めずに敗北をもたらした体質はいまだに残っており、原発事故でも責任者がはっきりしないという同様な状況がみられている。国民を守るという国家の目的が、国家そのものの維持になってしまっている。
それゆえ、原発事故をきっかけとして、このようなわが国の体質を変えていかなければいけない、とする。
3人目の藻谷浩介さんは、「福島から広がる里山資本主義」と題して、里山資本主義の魅力について語っている。
里山資本主義とは、お金だけで物事を動かそうとしているマネー資本主義は、それだけだと社会を壊すので、それを補うサブシステムだ。耕作放棄地や山林の木など、お金に換えられないもの、無駄に捨てられているものを使い、水、食料、燃料を自給したり加工して売ることで、若者の雇用を増やしたり、人口を増やそうという考え方だ。
その先例として、震災前の福島県飯舘村では、飯舘牛を生産し、飯舘でしか食べられない最高級の料理をつくる努力をしていた。付け合わせの野菜、米、酒まですべて地元産であった。こうした農業をテコにした村おこしで、一時は人口が転入超過するまでになっていたが、その努力は震災と原発事故で台無しになってしまった。
このような状態にしてしまった、原発政策を推進してきた責任者、政治家、官僚には、きちんと責任をとってもらわないといけない。けじめをつけないと、同じことを繰り返してしまう。
明治維新は水沢藩出身の蘭学者である高野長英から始まった。四民平等を最初に唱えたのは八戸藩にいた安藤昌益である。宮沢賢治は、時代を超えて宇宙の彼方から感じ取ったような話を書いている。このように、日本の先進事例は東北から始まっており、これからの新しい取り組みも東北から起きることを期待している、とまとめている。
なお、里山資本主義については、筆者も別の機会に紹介しているので、感心ある読者は参照していただきたい。(注2)
また、NHKの朝ドラ「あまちゃん」のテーマ音楽を作曲した音楽家である大友良英さんによる「もし『あまちゃん』の舞台が福島だったら」は、大友さんの楽しい語り口に、思わずニンマリと笑ってしまう個所が少なくない。
大友さんの話からは、被災状況が深刻であった福島はドラマ「あまちゃん」の舞台にはなり得なかったが、舞台となった岩手県久慈市が「あまちゃん」をきっかけとして地域の誇りを取り戻しているように、福島県民も原発事故に負けることなく誇りを取り戻して欲しい。
そして、福島の事故を最後に、世界から原発事故がなくなるような奇跡が起こったら、福島出身であることを誇りに思う人たちが増えるのではないか、という温かなメッセージが読み取れた。
最後の、フランス現代思想を専門とする内田樹さんによる「3・11は日本に何を問いかけたか」では、内田さんは、人口減少に転換した日本は、これからはゆっくりダウンサイズする社会を選択すると考えていたという。そして、3・11の大震災は、それまでの成長一辺倒であったり、制度劣化している社会を再考する機会を与えてくれた。経済規模は縮小しても、心豊かな社会に方向性が切り替わるはずと思った。
しかし結局は、政府も国民も、経済成長を選択している。具体的には、原発を再稼働するような社会を選択している。
現在、戦後レジーム(体制)からの脱却というスローガンのもとに経済政策が進められているが、そこから生活者である国民は恩恵を受けているのだろうか。
また、世界的にも今の経済社会システムは、壁に直面している。アメリカの政治がその典型で、国家戦略は泥沼化している。
そのような動きの根底には、今日の世界が直面しているグローバリゼーションとローカリゼーションの同時進行がある。グローバル化の進展としては、人の出入りが自由になった分、テロが増えたりしている。また、EUが拡大すると、反対に国民国家の小さな集団を探して独立や帰属先を求めるようになっており、連帯と分裂が表裏をなす不安定な時代になっている。
このような世界的な歴史的転換点において大切なのは、立ち止まって考えることではないか。
よく「対案を出せ、対案がないなら黙れ」という人がいるが、対案がなくても「その案で良いのか、もう少し考えましょう」という延会の動議があり得る。使えるもの、使えないもの、修理できるものなど、ていねいに識別しながら、想像力を働かせることが必要だ。どうしてそんなに急いで国の形を変えないといけないのか、ちょっと立ち止まってはどうか。
そこでは、理論・理屈をベースとして考えることも必要だが、同様に生身の人間としての実感が大切だ。順序としては、まず共感するという感情的反応があって、それから正義を語るような知的な議論があるべきだ。
現在、戦後70年続いてきた統治(政治)の仕組みが壊れようとしているが、生身の感覚をベースとして政治を考えることが大切ではないか、と説く。
以上、筆者なりのまとめであるが、こうして皆さんの講演内容を俯瞰してみると、経済成長・お金中心主義の見直し、「無責任の体系」の反省、共感すること、誇り(プライド)の大切さなど、共通する言葉や問題意識がみられていることに気づく。
そう考えると、この本の編者が意図したタイトルである『福島が日本を超える日』とは、結局、原発の推進に象徴される戦後の経済優先社会(成長路線)を見直して、足もとにある地域社会や地域経済を再生する視点から、国民・生活者の幸せとは何かを見直すことではないか、と感じた。
具体的には、再生可能エネルギーの活用を含めて、地消地産による経済循環や相互扶助、コミュニティづくりを基本とした地域づくりの大切さが見えてくる。
『福島が日本を超える日』とは、大震災と原発事故によりゼロ(マイナス)から再スタートしている福島が、人間(住民)や地域を大切にする社会を創造していくリーダーとして期待されているのだ、と理解した。
(注1)平成25年3月11日、800人の原告により、東京電力及び国を相手として原発事故で生業ができなくなったことに対する訴えが福島地方裁判所に起こされ、現在は4千名近くに増えて裁判が進行している。
(注2) 「里山の魅力を見直す」、平成25年11月21日
http://www.f-jichiken.or.jp/column/H25/yosioka141.html
「進化する里山資本主義」、平成26年6月18日
http://www.f-jichiken.or.jp/column/H26/yosioka164.html
参考文献:
浜矩子、白井聡、藻谷浩介、大友良英、内田樹著『福島が日本を超える日』かもがわ出版、2016年3月http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ha/0827.htm
※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません
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