仕事で、久しぶりに大分県にある別府温泉を訪ねた。福島県も温泉県であることから、先進的な現場を見聞きすることで、新たなヒントを得るのが目的である。
別府温泉は源泉数、湧出量ともに日本一といわれ、古くからわが国を代表する一大温泉地、温泉街であるが、近年は別府八湯(注)を、まち歩きやさまざまなプログラム(イベント)の体験で楽しむ温泉博覧会(オンパク)の成功と、韓国や中国を中心としたインバウンド客の増加などで、ふたたび脚光を浴びている。
少し関係文献をあたってみたところ、「別府観光の父」と呼ばれている起業家・油屋熊八の発想や行動力がおもしろく、学ぶところが多かった。温泉地開発のノウハウだけでなく、地域振興を進めるアイデアが満載と感じたので、コラムとして紹介してみたい。
(注) 別府八湯とは、市内にある別府、浜脇、鉄輪(かんなわ)、明礬(みょうばん)、亀川、観海寺、堀田、柴石の8温泉をさす。
JR大分駅の駅前に、手足を上げて阿波踊りを踊っているような奇抜な姿をした銅像がある。その人物こそが、いまから100年前に、別府温泉を開発した油屋熊八(以下、熊八と略称)である。

別府駅前にある油屋熊八像
熊八は、1863(文久3)年、愛媛県宇和島の商家に生まれた。代々、油屋を営んでいたことから油屋の姓を名乗ったが、父の代は米問屋であった。27歳で宇和島の町議会議員になり、その後、大阪で相場師になったが 日清戦争後の経済動乱で破産してしまう。のちにアメリカに渡り、3年後に帰国する。
この間、熊八はアメリカでクリスチャンの洗礼を受けたことから、“旅人をねんごろにせよ(もてなしせよ)”という聖書にある奉仕の言葉に導かれて、それまでの日本にはないような、世界中から旅人がやってくる国際的な温泉観光地の開発を決意する。
そして、1911(明治44) 年、熊八(49歳)は、妻のいる別府に移り住み、わずか2部屋の温泉宿を開業した。その宿は、「旅人をねんごろにせよ」の精神を実践し、宿泊客がゆったりとくつろいで欲しいとして、見事な日本庭園や極上の寝具を用意したという。熊八と別府との出会いである。
当時から、別府は湯治場として知られていた。そこで、のちに盟友となる梅田凡平と別府の教会で出会い、意気投合して私設別府宣伝隊を結成する。2人は別府に惚れ込み、一大観光地にするために行動を起こした。
まず、なによりも派手な宣伝こそが大切と考えた。そこで観光客の玄関口となる別府駅や別府港の桟橋では、はっぴを着てカスタネットを鳴らして、客を呼び込んだ。
また、印象に残るキャッチフレーズや宣伝文句を考えた。それが「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というものであり、ノボリやチラシなどに書き込んで宣伝した。さらに、新聞広告や全国各地へ出向いて宣伝を行い、国際観光温泉地を広めた。
加えて、のちに県議会議員、衆議院議員となる宇都宮則綱との出会いが大きく、梅田凡平と3人の仲間がそろい、別府温泉宣伝協会をつくり活動を拡大した。熊八は、ピカピカのおじさん、梅田凡平はニコニコおじさん、宇都宮則綱はチャップリンのおじさん、と自らを呼んだ。つまり、自分からエンターテナーとして、人を喜ばせて売り込んだのだ。
その後、1923(大正12)年、北九州・小倉から大分を経由して鹿児島まで結ぶ日豊本線が全通した。また、大阪商船による大阪-別府間の旅客船が、瀬戸内海を経由して毎日運行するようになり、交通アクセスは一段と改善した。そんな別府港で、熊八は船に向かって投げる紙テープの販売権を得て、資金獲得につなげた。
さらに、別府市北浜に別府-大阪間を結ぶ水上飛行機の定期便が就航していたこともあり、別府での遊覧飛行を開始した。こうして、観光客の陸、海、空からのアクセスを確保することができた。
また、熊八は、温泉街を当時としてはめずらしいハイカラな外国の車で案内し、別府の夜を、「東洋のナポリ」として呼ばれる100万ドルの夜景として、不夜城ぶりを売り込んだ。現在はその面影はほとんど失われているが、メインストリートとなっていた現在の市街南側をはしる「流川通り」は、別府最大の繁華街として大いに賑わった。
別府は別府八湯といわれるように、地獄(源泉が勢いよく湧き出ている温泉地)めぐりなどの市街を周遊するコースがある。当時の別府めぐりは人力車かバスであったが、熊八は、そこにフォード、ビューイックなどの外車を導入した。
1921(大正10)年に、地獄循環道路が開通したことを踏まえ、地獄めぐりを推進するためには、目玉になるような観光資源が必要と考えた。そこで、鉄輪に土地を持っていた宇都宮則綱は熊八と相談して、1923(大正12)年、温泉を活用したワニ園(鬼山地獄)を開発した。このワニ園は、現在も約70匹のワニを飼っており、ワニがジャンプしてエサに飛びつくエサやりで、観光客に人気を博している。
1924(大正13)年、別府市が誕生し、しだいに温泉地とともに、別荘地としても注目されるようになり、ハイカラな建物が建つようになった。同年、京都帝国大学付属地球物理学研究所が建設され(現在は京都大学地球熱学研究施設本館)、温泉や地熱、火山などの研究がはじまった。また1928(昭和3)年には、別府市郵便電話局電話分室(現在は別府市南部公民館)が建設され、これらの歴史的建物も観光資源(いずれも国有形文化財)の一角となっている。
このような別府市制の誕生にあわせて、熊八は亀の井ホテルを開業、ベッドに水洗トイレという別府初の西洋式ホテルとした。また、安心して温泉を楽しんでもらうために、看護婦の常駐も取り入れた。
さらに1929(昭和4)年には、アメリカで開かれた世界ホテル大会に、日本代表として参加している。
1925(大正14)年には、富士山頂の7合目にある山小屋のそばに、大きな標柱を立てている。それは、別府の宣伝を目的としたものであり、別府の大発展を祈願して、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の文字が刻まれていた。(現在はない)
また、熊八は観光バス会社として亀の井バス(株)を運営し、外国製のボンネット・バスとハイカラな服を着た少女車掌(バスガイド)を導入した。日本初の、「定期乗り合い遊覧バス事業」を開始したことになるが、バスガイドの採用条件は、「容姿端麗、頭脳明晰の女性」だった。
バスガイドは耳に心地よい七五調の観光案内を行い、評判となった。この案内は、現在も受け継がれている。まだ女性が社会で働くことがめずらしかった時代、バスガイドは人気の的になり、全国に知名度が広がった。女性の花形職業になり、働く女性の手本をつくった。

油屋熊八像とバスガール(別府温泉宣伝協会)
また、1927(昭和2)年、大阪毎日新聞と東京日日新聞が主催となり、全国から「日本新八景」と銘打ち、全国の景勝地を募集した。さっそく熊八は、別府の魅力を日本中の人に知って欲しいと、投票に際して2万枚のはがきを用意して、市民全員が応募するように働きかけた。
すると、なんと別府は第1位に輝くことができ、知名度はさらに上がった。ちなみに「日本新八景」には、別府温泉のほか、雲仙岳、華厳滝、十和田湖、室戸岬、上高地、木曽川、狩勝峠が選ばれている。
機をみるに敏な熊八は、さっそく首位当選のお礼として、大阪で水上飛行機を飛ばして、上空から「当選御礼!別府温泉」と書いたビラをバラまいた。もちろんテレビはなく、ラジオが始まって間もない時代である。これもまた大きな宣伝効果となった。
熊八は、アメリカ生活を経験したことから、英語が得意でインターナショナルなセンスも持っていた。この利点を生かして、スウェーデン皇太子夫妻が来別し、あるいはフランスの外交官、ヘレンケラー、与謝野鉄幹・晶子夫妻などの著名人らを歓待した。各国の観光客船の来港ほか、英国軍艦まで寄港している。
さらに、熊八は、別府から車で30分の距離にある、美しい湖など自然豊かな湯布院温泉に賓客を招いた。このために、別府-由布院間の道路を開発し、由布院村(当時)に、亀の井別荘を建てた。
そのような行動の背景には、九州を一大国立公園にするという壮大な構想があった。大分、熊本、長崎、宮崎の各県にまたがる九州一大国立公園構想であり、別府、湯布院、九重、阿蘇、雲仙また高千穂を結ぶ九州横断道路の建設を売り込んだ。
その結果、1934(昭和9)年には阿蘇くじゅう国立公園が指定されて、実現した。また、1964(昭和39)年には、九州横断別府阿蘇道路(通称やまなみハイウェイ)が開通している。
1931(昭和6)年には、亀の井ホテル20周年の記念行事として、手のひらの大きさを競う全国大掌(たいしょう)大会を開催した。熊八は、右手が左手よりも一回り大きかった。家業のコメ問屋で、升を持って米を量ることで大きくなったとして、自慢の手の大きさだった。こんなイベントの開催も、全国で話題になったという。

全国大掌大会のポスター(別府温泉宣伝協会)
熊八は、1935(昭和10)年3月、73歳で永眠している。宇都宮則綱は回顧録のなかで、一身一家のためでなく、別府市のために頼まれもしないのに身銭を切って別府温泉の宣伝に尽くした、とその業績をたたえている。
以上に紹介した熊八の業績を、地域振興の視点からまとめてみると、
・集客のための人目を奪うようなハデな宣伝、キャッチコピーづくり
・仲間をつくることによる活動力の強化、全国そして海外にまで飛び回る行動力
・先見の明と機をみるに敏な発想力、チャレンジ精神
・大胆なビジョン・構想力と道路、鉄道などのインフラ整備・アクセスの確保、法指定区域などにつなげる事業力
・奉仕の心に基づく無私の哲学
などの点が指摘できるのではないか。
富士山頂近くに大標柱を立てるというような、現代の常識から考えるといささかやり過ぎな感じもするが、おそらくそんな人物だからこそ、別府をここまで大きく育てることができた、というべきかもしれない。
今日の社会は、当時とは比べられないほどに発展しているが、おもてなしの心を基本としながら、継ぎ目なく奇抜な驚きを創り出し、それを集客効果や営業力につなげるというビジネスモデルは、ディズニーランドやUSJの成功にみるように、現代でもそのまま通用している。
地域振興に向けて、地域の個性を踏まえつつ、熊八の哲学、発想力、構想力、行動力そして事業力などから学べることは、少なくないのではないか。
参考資料:
池内治彦「究極のおもてなし哲学 広域観光開発の先駆者・油屋熊八」、月刊「事業構想」2014年10月号
https://www.projectdesign.jp/201410/philosophy/001664.php
BS11特別番組「油屋熊八伝~100年前、別府を世界に売り出した男~」、最近の放映は2017年1月20日、夜10時~10時54分
http://www.bs11.jp/special/post-67/
※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません
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