2017.7.5
  「明治維新という過ち

                                総括支援アドバイザー兼教授 吉岡 正彦


 
久しぶりに、スケールの大きな本を読んだ。タイトルにした原田伊織著『維新という過ち』(毎日ワンズ刊、2015年)である。サブタイトルには、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」とあり、吉田松陰ら幕末から明治維新時の英雄とされる人物像を再考するとともに、明治維新とは何であったのかを問い直している。
 2018 (平成30)年が明治維新150年とされることから、戊辰戦争では激戦地となった福島県内でも、明治維新とは何であったのかと、考える機会が多くなっているように感じる。ちょうどそんな時に本書を手にする機会があり、一気に読んだ。そして、我々の常識を根本から覆すような過激ともいえる内容に、興奮を覚えた。

 この100年以上、誰もが明治維新こそ日本を近代に導き、明治維新がなければ日本は植民地化されたはずだと信じ込まされてきた。公教育がそのように教え込んできたのだ。つまり、明治維新は歴史上、無条件に「正義」であり続けてきたわけだが、果たしてそうなのか、と問うところから始まる。
 このように本書は重く大きなテーマを扱っており、記載には注意が必要なことから、本コラムではなるべく著者の表現を活用し、かつ主要な論点にしぼってまとめてみた。

 幕末動乱期ほどいい加減な”お話”が「歴史」としてまかり通っている時代はなく、虚実入り乱れて薩長土肥の下級武士は永年ヒーローであった。なかでも中心は、長州と薩摩であった。つまり、私たちが教えられてきた幕末維新に関する歴史とは、「長州・薩摩の書いた歴史」に他ならない。
 明治維新後、長州・薩摩による政権の世の中になったが、その後も根っこのところで、大正、昭和をへて平成の今も引き継がれているのではないか。

○龍馬と竜馬
 司馬遼太郎氏の著作に『竜馬が行く』という作品がある。これは小説、つまりフィクションである。だからこそ司馬氏は「龍馬」とせずに「竜馬」とした。ところが、多くの人がこの小説に描かれた竜馬を、坂本龍馬の実像だと信じ込んでいる。このことが、幕末動乱史の解釈を大いに誤らせた。
 龍馬については、薩長同盟の立役者、「船中八策」の立案など、麗しき誤解があまりにも多い。本当の龍馬は、長崎・グラバー商会の”営業マン”的な存在であったのではないか。グラバー商会とは、清国でアヘン戦争を推進して中国侵略を展開した中心勢力ジャーディン・マセソン社(前身は東インド会社)の長崎(日本)代理店である。
 当時、朝敵となった長州は武器が欲しい。一方、薩摩は米が欲しい。この相互メリットを、グラバー商会がつないだ。そのグラバー商会の利益を図る龍馬が、薩長同盟に立ち会うようになったのは極めて自然な経緯ではなかったか。龍馬は、じつは武器調達などを通じて日本侵略を企図していたイギリスの手先・グラバー商会の、そのまた手先であった。
 また、龍馬が書いたとされている「船中八策」(憲法の制定、議会政治の必要性など8項目にわたる新しい国家体制の基本方針)になると、これは、いつ、誰が、どこで発案したものか、全く分からないもので、そもそも伝わるような原案がそのまま存在したのかどうかさえ疑わしい。
 つまり、この男ほど、虚飾が肥大して定着した幕末人は他に例をみない。その意味で、司馬氏の罪は大きいといわねばならない。

○「明治維新」というウソ
 そもそも「明治維新」という事件なり、事変というものは歴史上どこにも存在しない。しいて簡略に定義づければ「江戸幕府とその社会体制の転覆を図り、天皇親政を企図して、これらを実現させた長州・薩摩による一連の政治、軍事活動」とでも表現できる。
 しかも、公教育では、明治維新が欧米列強による日本の植民地化を防ぎ、明治維新があってこそ日本は近代化の道を歩むことができた。その功労者が、長州の吉田松陰、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、板垣退助らであったとする。
 しかし、これらのほぼ全ては史実ではない。彼らは勤皇の志士などではなく、現代流にいえば暗殺者集団、つまりテロリストたちである。初代内閣総理大臣の伊藤博文は暗殺者集団の一員であり、吉田松陰は、ことごとく暗殺を主張している。当の長州藩が松陰にいかに手を焼いていたか、そろそろ実像を知るべき時ではないか。

 尊皇攘夷を声高に叫ぶ長州・薩摩のテロリストたちを動かしていた桂小五郎(木戸孝允)や西郷隆盛、大久保利通たちは、ほんとうに尊皇という意識があったかといえば、全くない。それは、倒幕のための、単なる大義名分に過ぎなかった。そのことは、彼らの幕末動乱期の活動、行動が明白に物語っている。
 つまり、岩倉具視や大久保利通らは、偽の「倒幕の密勅」をつくった。天皇、摂政の署名もなければ、花押もないという“天晴れ”な偽物である。
 天皇の政治的意思を表明する勅許を、己の政治的野心を遂げるために偽造したことは、岩倉具視が如何に天皇を軽んじていたかの明白な証左である。長州、薩摩政権による天皇の政治的利用は、ここから始まっている。
 なお、「明治維新」という言葉も、昭和になってから一般化した言葉である。往時の言葉はしいていえば「御一新」である。

○吉田松陰というウソ
 私たちが教えられてきた偉大な思想家という吉田松陰像は、残念ながらウソである。松陰とは、ひと言でいえば、乱暴者の多い中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋らがでっち上げた虚像である。
 松陰といえば、誰でも松下村塾を開いて維新の志士たちを育成した指導者、と答えるだろう。ところが松下村塾は、陽明学者ともみられる叔父であり師でもある玉木文之進の私塾である。松陰が松下村塾を主宰していたという事実は存在しない。実像としては、松下村塾に集まった仲間のリーダー格というような存在であった。

 松陰といえば、安政の大獄により、大老の井伊直弼が処刑したことになっているが、当時は尊皇攘夷派の粗っぽい一人に過ぎず、井伊は松陰のことなどはよく知らない。いざ処刑という段になって、井伊は長州藩に意向を聞いているが、その回答が松陰の行動を暴発とし、「斬首やむなし」というものであった。不逞の輩が一人処刑されただけのことであった。
 松陰や松下村塾が注目されるようになったのは、山縣有朋が「師」として拾い上げたことによる。その後、長州閥の勢力膨張に歩調を合わせて、すなわち日本の軍国主義化に乗って、気がつけば松陰は神様(地元の萩市や東京・世田谷区には松陰神社がある)になっていたのだ。
 つまり、松陰の唱えた侵略を肯定する膨張主義の考え方は、薩長を中心とした軍部の手により大東亜戦争にまで引き継がれ、戦争へと突き進んでいった。すなわち「明治維新」とは、明治精神に回帰しようとする「昭和維新」が燃え盛ったことによって、ひるがえって一般化した言葉であり、思想概念なのだ。

○狂気のルーツ・水戸黄門
 水戸浪士が桜田門外の変を起こし、大老井伊直弼に対して「天誅」を実践したことは、あまりにも有名であるが、このような狂気のテロリズムを生んだ背景に、尊皇攘夷を柱とした水戸学がある。そして、水戸学を生んだルーツが水戸黄門(光圀)である。
 長州テロリストたちがテロリズムを正当化する論拠とした水戸学とは、実は「学」というような代物ではなかった。空虚な観念論の積み重ねであり、己の気分を高揚させて自己満足にひたるための”檄文”程度のものと考えて差し支えない。

 光圀は、藩政では検地をおこなっている。しかし当時、1間は6尺3寸であったがこれを6尺としたため、計算上、28万石の水戸藩は36万9千石に膨れあがった。こうすることで、御三家である尾張藩62万石、紀州藩55万5千石と、張り合いたかったのだ。だが間の悪いことに、検地の年から3年続けて水戸は飢饉に襲われ、実際の取れ高は15万石程度に落ち込んでしまい、領民や家臣団はますます困窮することになった。
 この藩は貧乏であったが、もともと豊饒とはいえない土地に加え、上記したような見栄と体裁のための暴挙が行われたうえ、さらに、藩財政に過大な負担をしいて無意味な『大日本史』編纂に執着した光圀こそが、その元凶であった。

 テレビドラマなどで好々爺のように描かれる光圀は、第二代水戸藩主であるが、光圀こそが狂気のルーツであり、その実像は、女遊びが激しく、頻繁に試し斬りをやったりしている。人を斬ることに快感を覚えていたのではないか。
 光圀は公家好きであったことから尊皇に結びつき、後世、薩長政権になってから見直され、それが今に伝わる「水戸黄門」を生んだ背景でもある。その折り、女狂いや試し斬りの光圀という実態は消去されたのだ。

○戊辰戦争は避けられた内戦であった
 武力で江戸体制の転覆を図った長州・薩摩を中心とした反乱軍は、戦争に勝利して「官軍」となった。長州・薩摩は勝つために朝廷をかつぎ、これを脅し、利用して、それが決定的な要因となって戦に勝った。最終的に会津藩を壊滅させて勝者になったから「官軍」となり、会津はただ負けたという一点のみによって「賊軍」とされた。

 会津と長州の仇敵関係は、会津が長州のテロリストたちが暗躍する幕末動乱期に、天皇の身を守る京都守護職を押しつけられたところからはじまる。
 テロリストのリーダー格は、桂小五郎(木戸孝充)、吉田松陰とその徒党、高杉晋作、久坂玄瑞といった激情家たちである。高杉の奇兵隊は、戦闘を武士の専権ではなくした画期的な戦闘部隊として評価されたりもしているが、実態はならず者集団に近かった。現代流にいえばゲリラ部隊であり、こういった輩が官軍を名乗ったのだ。

 戊辰戦争には、鳥羽伏見の戦いから二本松戦争、会津戦争、箱館戦争などが含まれる。ひと言で済ませるには余りにも多くの血を流した内戦であった。
 なかには武力による鎮圧を必要としなかったケースもあったが、「血を流さなければダメだ」として、強行に武力にこだわったのは大久保利通である。
 歴史に「たら・れば」は禁物だが、もしも、薩長連合を中心とした西軍(奥羽鎮撫軍)の実質的な総指揮官が世良修蔵でなければ、戊辰東北戦争は起きていなかったかもしれない。世良は長州出身で第二奇兵隊のメンバーであり、粗暴で品性が悪いが、多少読み書きができたために幹部になった男だ。

 奥羽各藩は官軍を名乗る長州・薩摩に協力し、会津藩内に攻めることに躊躇し、大勢としては和平論が強く、その具体策を模索していた。そこへ世良という下劣な成り上がり者が現れ、暴虐の限りを尽くした。これに激怒した仙台藩士により世良は斬首され、この出来事をきっかけに奥羽列藩同盟が結成され、戊辰東北戦争がはじまった。
 最終的に、二本松藩は、戊辰東北戦争において338名の人命を失った。これは人口1万人あたりでみると、約50名である。同じく会津は、人口1万人あたり150名という甚大な損耗を蒙っている。この2藩の戦死者の割合は、奥羽越列藩同盟の中で傑出して高い。このことは会津・二本松両藩が、いかに苛烈な抵抗を広げたかを示している。
 総指揮官である世良がもう少し真っ当な人物であったなら、戊辰東北戦争は、二本松や会津での惨劇を含めて、回避できた可能性がある。

まとめ
 最後に、以上に紹介したような個々の論点に加えて、著者が近著(参考文献、参照)も交えて、全体を通じて言いたかったと思われることを筆者なりにまとめてみると、
・明治維新によって、わが国が近代化し発展したという理解は誤りであり、江戸時代には、町民らの高い識字率や今日「江戸システム」と呼ばれるような街道や海運といった流通、環境共生に配慮したサスティナブル(持続可能)な社会システムなどがあった。
・幕末の混乱期に、破壊することに邁進し青写真(ビジョン)を持たなかった新政府の役人たちを前にして、対外交渉などで才覚を振るったのは、じつは日米修好通商条約に署名した井上清直、岩瀬忠震、あるいは水野忠徳、小栗忠順(上野介)らの幕府の優秀な高官たちであった。明治の近代化とは、じつはこれら幕臣たちが描いていた青写真に寄っている。
・もし長州・薩摩のテロを手段とした倒幕が成功せず、わが国が「明治維新という過ち」を犯さなかったとしたら、徳川政権は江戸期の遺産をうまく活かして変質し、国民皆兵で中立を守るスイスか、自立志向の強い北欧3国のような国になっていたのではないか。
・少なくとも、大陸や南方侵略にのめり込む大東亜戦争という愚かな戦争に突入して国家を滅ぼすということだけはなかったであろう、という気持ちではないか。
・それにつけても、会津や二本松を中心とした福島県内各地ほかを荒廃させた戊辰東北戦争が、薩長を中心とした西軍指揮官の愚かな判断により生じてしまったならば、まことに残念と言うほかない。

 本書は、我々の常識を覆すような多くの論点を提起しており、このような小論でその全体は紹介しきれない。しかし、とても重い示唆が書かれているので、是非とも多くの皆さんに読んでいただきたいと思う。
 坂本龍馬、吉田松陰、そして本稿では紹介できなかったが西郷隆盛、勝海舟といったこれまで偉人とされてきた人物の実像は、どんな人間だったのか。そして、歴史上、果たした役割は、いったい何だったのか。あたりまえのように、神様や偉人として扱うのではなく、等身大の生身の人間として再評価し直すべきであろう。

 残念ながら、筆者自身、以上に紹介した内容について、検証できるような能力は持ち合わせていない。しかし、これから時間をかけて史実を丹念に掘り起こし、専門家らによるさまざまな考証や議論をつうじて、本当のわが国の歴史を再構築していく必要があるように思う。
 そうした努力を進めることが、日本の将来の方向性を決めることにもつながるのではないか。

参考文献:
原田伊織著『維新という過ち』〈改訂増補版〉~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~、毎日ワンズ、2015年 http://mainichiwanz.com/index.html

原田伊織著『三流の維新 一流の江戸』~「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」~、ダイアモンド社、2016年 http://www.diamond.co.jp/book/9784478100325.html

※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません