数か月前、テレビで放送された映画、『殿、利息でござる!』を観た。その番組解説に、「江戸時代、重い年貢に困った庶民たちがお上に銭を貸して利息を取った実話である」というような紹介があったので、これは発想が逆転しているし、なによりも実話とのことで面白そうと思ったのだ。
そのストーリーを簡単に紹介すると、いまから約250年前の江戸時代、重い年貢などにより夜逃げが続く仙台藩の宿場町である吉岡宿(現在の宮城県黒川郡大和町)に住む造り酒屋の穀田屋十三郎は、幼なじみの知恵者として知られる菅原屋篤平治から町を救うアイデアを聞く。それは仙台藩に千両(現在の貨幣価値にして3億円)という大金を貸し付け、利息を受け取ることで、お上から年貢を取り戻すという逆転の発想だった。
当時、このようなお上にたてつくような危険な企てが明るみに出れば、打ち首も想定された。しかし、十三郎を中心とした宿場の名士たち9名は、町を救うために自分たちの生活を切り詰め、私財を投げだし、あるいは協力する庶民から小銭を集め、やっとのことで千両を集めることに成功する。当時の利息はおよそ年利1割、すなわち千両貸せば、年に百両(3千万円)が入る計算になる。
当然のごとく、仙台藩はそのような前代未聞の申し出に対して門前払いなどで却下しつづけるが、繰り返し申し出を受けるなか、次第に私財を投げ出して町を救おうとする主旨に共感し、当時、藩も幕府から命じられた普請のために資金が必要となっていた背景もあり、最終的に受け入れた。
その結果、それから幕末に至るまでの60年間に6千両の利息を得ることができた。なんと結果的に、集めた元金千両の6倍となって返ってきた計算になる。こうして当時およそ2百軒あった吉岡宿は、その後は家の数も減ることなく、明治の時代を迎えることができたのだ。
この映画を観て、最初に「あっ」と思ったのは、その舞台となった宮城県大和町吉岡は実父の出身地であり、筆者も小さい頃に何回か訪ねた記憶があった。また、7~8年前にも、現在も家を継いでいる叔母を訪ねたことがあり、知った土地柄だった。
ちなみに半世紀以上も前になるが幼少時に訪ねたとき、当時健在だった祖父は街道に面した木造家屋で鍛冶屋を営んでいた。カチンカチンと槌打つ音をたてながら、店先につなぎ止めた農耕馬の蹄鉄を打ったり、荷車の車輪に使う金具などをつくっていた。また、街道からの眺望として、いまもランドマークとなっている七つ森と呼ばれる山々を仰ぎ見ることができるのどかな町であった。
そんな懐かしさも相まって、映画を観た数日後、近くの本屋に行き、映画の原作である歴史学者の磯田道史さんが書いた『無私の日本人』(文春文庫)を買った。そして、磯田さんの流れるような文章にも導かれて、一気に読んだ。
このように疲弊した地域を救うために私財を投げ出し、長い年月をかけながら地域再生に成功した「無私の日本人」がいたことに、改めて感動した。しかも彼らは「つつしみの掟」をつくり、この話は他言しないようにと言い伝えしたために、世間に知られることがなかったとのことだ。
読みながら、このような発想を現代社会に当てはめて、国などを相手に地域が自立できるような利益を生むアイデアが考えられないかなどと、思いをめぐらせた。
おそらくこの行為を現代流に表現すると、疲弊する地域の住民たちが自己資金を出しあって基金をつくり、その基金を銀行に預ける。銀行は国から国債を買うことで利息を確保し、住民たちはその利息を受け取り地域再生に還元した、というような話に置き換えることができるのかもしれない。
しかし決定的な違いは、住民たちが当時、命を賭けながらも前代未聞のアイデアによりお上への資金貸付を思いついたこと、さらに困窮にあえぎながらも地域が一体となって企画し、得られた利息を全員で分け合ったなどの点にあるのではないか。
そう考えると、現代においてこれに似た仕組みとしては、ソーシャルビジネス、クラウドファンディング、NPO・ボランティア活動、あるいは少し古くなるが相互扶助に通じる「講」などが思い浮かんだが、どうもピッタリとしない。もう少し大胆な発想やしくみが必要ではないかと、さらに思いをめぐらせている。
なお、この『無私の日本人』のなかには、紹介した穀田屋十三郎のほか、中根東里(江戸時代の儒学者)、大田垣蓮月という二人の「無私の日本人」が紹介されている。なかでも、女流歌人であり陶芸家でもある大田垣蓮月(1791(寛政3)年-1875(明治8)年、85歳で死亡)も、なかなか魅力的な人物なのであわせて簡単に紹介したい。
京都で生まれた蓮月は、出生時の複雑な事情のために養父母に育てられた。子どもの頃から活発で才能豊か、かつ美貌の持ち主であったが、幼い頃に養母と、そして二度結婚するも2人の夫やその間に生まれた4人の子どもたちとも死別するなど、不幸な境遇が重なる。その後、養父とともに出家して尼僧となるが、養父も蓮月が42歳のときに亡くなっている。
そんな境遇のなか、心を癒やすためか上田秋生(『雨月物語』の作者として知られる文学者、歌人)らに手ほどきを受けていた和歌が、しだいに世の中から認められ、また素朴なつくりの急須や茶碗などの陶器「蓮月焼」が、人気を得るようになる。以下に、興味を持った3つの逸話を紹介する。
しだいに「蓮月焼」が評判になると、これをまねて偽物を売る業者たちが現れた。それを知った知人が蓮月に偽物が出回っていることを伝えると、それを聞いた蓮月は、自分がはじめた陶芸で食べられる方が出来たのはええことですわ、とほほ笑んだ。しかも偽物業者たちに見本として本物を与えたり、偽物にもみずから評判の和歌を彫りつけるなどして協力したという。
また、黒船が来航したとき、世上は騒然となり、学問をしたものほど、みな目を怒らせて「攘夷」を叫んでいた。ところが、蓮月は同居していた少年を相手に、あめりかはんはわたしらになんぞ悪いことでもしたかと問い、はじめから敵というのはいけないことだ。案外、世の中の潤いになるかもしれない、と洞察していた。ちなみにその少年とは、のちに文人画家として知られる富岡鉄斎であった。
さらに、蓮月は「自他平等」という仏教思想を持っていた。1868(慶応4)年正月、鳥羽伏見の戦いの知らせが飛び込んできたおりに、同じ日本人同士の戦いに心を痛め、和歌を短冊にしたためた。
それは、「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば」、という歌であった。この歌を記した短冊を薩摩藩士のつてを頼り西郷隆盛に直訴したことで、この歌が西郷を江戸城無血開城に導いたともいわれている。磯田さんは、いまのところ江戸城総攻撃を回避させたのは、西郷や勝海舟や山岡鉄舟の功績になっているが、「江戸を火の海から救ったのは、蓮月という一女性の、まともすぎるほど、まともな感覚であった」と書いており、ロマンをかきたてる。
『無私の日本人』に書かれている地域や社会に貢献した3人は、たまたまほぼ江戸時代に生きた人間であるが、だからといって江戸時代に戻ってはどうかと言いたいわけではない。
しかし、不都合な真実から詭弁を弄して逃げたり、金や権力で人心を掌握するなどのゆがんだ状況が目立つ現代社会は、すでに制度疲労が起きていると感じる。ちょうど、同書に解説を書いた数学者であり作家である藤原正彦さんは、経済至上主義に染まった人々は本来の日本人らしさを失っており、磯田氏はこれはちがうと義憤を感じて本書を書いたのではないか、と喝破している。
このような状況から脱却するためには、明治維新以降、近代化(資本主義経済)の名のもとに歩んできたわが国150年の歴史過程や、今日、大きな転換点を迎えている人口減少・少子高齢社会におけるわが国のあり方を、国民の視点からもう一度「洗濯」しなおすことが必要ではないか。 そのためにはこの先10年間くらいの時間をかけて、政治家などの利害関係者を外し、国内外の有識者や国民が参加して現代社会を総点検することで、あるべき日本の姿を描き直してみてはどうだろうか。
参考文献
「殿、利息でござる!製作委員会」『殿、利息でござる!』企画・製作、松竹・東日本放送、 2016年。 (テレビ放映は2018年7月7日、BSジャパンによる)
https://tono-gozaru.jp/
磯田道史『無私の日本人』(文春文庫)、2015年6月
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167903886
※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式
見解を示すものではありません。
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