まず、脈絡の無い乱文であることをご容赦ください。
皆さんは福島市にある“大笹生(おおざそう)”という場所をご存知でしょうか?
先日、福島市が整備する“福島おおざそうインター工業団地”の着工式が行われました。東北自動車道と東北中央自動車道を結ぶ位置にあるインターチェンジに直結して整備されるため交通の利便性は抜群です。福島市では「健康産業や食品加工関連企業の集積を目指し、地域の資源を生かした“福島らしい”産業振興を図り、約45億円の経済波及効果、約100人の新規雇用を見込んでいる(参考:福島市市政だより)」とのことです。私は今年の4月からこちらの研修センターに勤務しておりますが、元々は福島市の職員で、2つ前の職場が前述の工業団地整備を担当する企業立地課でした。当時はまだ計画の段階で、団地名に話題が及んだ際には「B.B.B.I?(Big(大) Bamboo(笹) Born(生) Industrial
park(工業団地))」などと団地名について話していたような記憶があります。思えば“大笹生”とは笹に由来する地名なのでしょうか。後ほど紹介します塩竈神社ですが、その参道のウサギと亀の案内板には、「二千年以上前は湖だったが、やがて水がひいて、笹が沢山生い茂っていた」とあります。
そんな大笹生に幼小期の数年間住んでいたことがあり、いささか話を盛りすぎる大笹生出身の母親から聞いた幾つかの話も合わせ、今後の発展が期待される“福島市大笹生”についてご紹介したいと思います。
【概要】
《人口》
明治9年(西暦1876年)に上大笹生村と町大笹生村が合併して大笹生村となり(他説では1889年(明治22年)に単独で発足と記述あり)、昭和30年(西暦1955年)に福島市に編入しました。面積は43.70㎢で福島市の5.69%を占めており、その大部分が山林となっています。
平成30年(西暦2018年)1月1日現在の人口は2,150人となっており年々減少傾向にありますが、明治26年(西暦1893年)の人口動態では出生が100人を超え、年間145人の増加と、今では考えられない数値です。その約300年前に米沢藩が作成した「邑鑑(むらかがみ)」という書物では人口258人とあるそうで、実に10倍以上に増えています。
≪くだもの≫
また、福島を代表する果物“もも”をはじめ、さくらんぼ、なし、ぶどう、りんごの特産地として観光果樹園が多く、初夏から初冬までの長い期間果物を楽しむことができる場所となっています。総務省の家計調査では、福島市が各種果物や野菜に対する支出金額や購入数量で上位に位置することが多く、大笹生地区760世帯の約30%が専業または兼業の販売農家(市全体では約3%、平成27年農林業センサス)で、明治27年頃はほぼ全ての世帯が農家であるなど、農業が定着した土地であることがうかがえます。
【歴史】
≪大笹生の由来≫
福島盆地は約1,000万年前から海が後退して陸地となり、その後の約900~300万年前までは湖だったことが地層から判明しています。その頃人類が誕生し、この地にも定住するようになりました。
福島市内には1,200箇所を超える遺跡があり、ここ大笹生には安養寺遺跡、上ノ町遺跡、羽根通遺跡など8つの遺跡があるとされ、それぞれから縄文時代晩期(約3,000年前)の石器や土器が数多く出土しており、人々が生活していたことが分かります。
平安時代の中頃、信夫庄(しのぶのしょう、信夫郡の前身)が確かな名前として史料に残るのは承安元年(西暦1171年)の記録「天王寺経筒」で、北郷と呼ばれる地区の西部にある台山の麓に位置した大笹生は信夫庄第一の大きく豊かな村だったようです。15世紀後半、それまで地区東部の瀬上(現在の福島市瀬上町)にあった本拠を伊達家人八代瀬上康秀が大笹生に移し、城を建立しました。現在も福島市内の各地に小字として館(舘)という地名がありますが、領主が本拠地を構えた場所として付いた地名で、遺跡などが発見されることも多く、大笹生(字舘付近)には今も空堀や土塁が残っています。(参考:ふくしまの歴史、大笹生のあゆみ、福島市ホームページ、福島市寺院名鑑)
≪直江兼続・・・の弟≫
米沢上杉藩の有名な武将“直江兼続”の弟である樋口秀兼とその子孫の墓が羽根山の麓にあります。ご存知、直江兼続は永禄3年(西暦1560年)に米沢藩の執事であった樋口兼豊の長男として越後で生まれたとされています(諸説あります)が、秀兼は樋口家の三男として生まれ、後に上杉家1千石の職務を執り行いました。
慶長5年(西暦1600年)豊臣方の上杉氏と徳川方の伊達氏が福島の松川を挟んで戦った“福島の関ヶ原 松川の合戦”において羽根山の頂に城を構えて見張りを行い、そのままこの場所に居残ったとされています。樋口家の家督を継ぎ、慶長19年(西暦1614年)には大坂冬の陣に参加し、米沢藩内では与板衆として活躍し、その子孫が幕末まで存続しています。一説では直江兼続より20歳も離れた弟で、関ケ原の後まで父の兼豊が現役で働いていたため、秀兼に関する話はあまり残っていないようです。(参考:ウィキペディア、ヤフー知恵袋、福島市ホームページ、現地案内板)
【写真】羽根山の北側の麓にある樋口家代々の墓
≪金鉱山≫
「台山の麓に位置した大笹生は信夫庄第一の大きく豊かな村」と言われた理由の1つは鉱山資源があったからではないでしょうか。上杉藩は鉱山開発にも力を入れ、慶長9年(西暦1604年)、寛永18年(西暦1641年)の2度に渡って他国へ鉱掘に出かけることを禁止するほどでした。当時の金山の坑道跡がふくしまスカイパークの手前に残っているとのことですが、藪に紛れて見つけることが難しくなっています。この他に銀山5ヶ所、銅山1ヶ所が「上大笹生金山絵図」という史料に記されているとのことで、大福寺の過去帳には山形、栃木、長野、徳島などからの坑道を掘る作業員の記録が残るなど、鉱山業として賑わっていた様子がうかがえます。(参考:大笹生のあゆみ、ふくしまの歴史)
【寺社仏閣】
≪塩竈神社≫
まず塩竈神社です。前段の歴史で述べました羽根山の頂に構えた城は、以前から鎮座しているこの神社の拝殿を使用しておりました。宮城県の鹽竈神社は弘仁11年(西暦820年)に作られた弘仁式と呼ばれる文献に初見し、律令政府が祭神料としての支出を認めた全国でも稀有な神社として国家から崇敬を受けましたが、延喜式神明帳と呼ばれる国内主要神社の名簿にはなぜか載っていないため、余程の神格であったと言われています。その一方で、大笹生の塩竈神社は日本各地に鎮座する一般的な塩竈神社とされ、全国に35、北海道・東北に10ある塩竈神社の一つとされています。
神社の由来は二説あり、一つは全国塩竈神社の総本社といわれている宮城県の鹽竈神社とほぼ同じで、「武甕槌神(タケミカヅチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)が塩土老翁(シオツチノオジ)の先導で諸国平定した際に人々に製塩の方法を教えた事を記念して建てられた」といわれています(現地案内板)。
他方、保存されている神社歴には「日本書紀の神武東征が九州から始まり、その後の命により塩土老翁の先導で始まった東北平定で、宮城県の鹽竈神社より手前にある大笹生に先に到達したが、塩をつくるための湖水の塩分濃度が希薄だったため記念祠を設けて先へ進み、宮城塩釜へとたどり着いて塩を作った」との記録があるようです。こちらの方がその歴史は古いため県外者からも篤く信仰されたと伝えられています。(参考:現地案内板、しおがまさまの歴史と文化、ウィキペディア、大笹生史)
この塩竈神社には“御神馬”にまつわる言い伝えがあり、「古代福島盆地が湖であったころ、塩土老翁が(福島市の)伏拝から筏で羽根山に上陸して神馬を休ませたところ、蹄の跡が出来た」とのこと。ただ、実際の場所に石碑はあるものの、蹄の跡が分かりません。ところが、西に直線で650m程のところにある神明神社(延宝4年(西暦1676年)頃建立)の拝殿裏にはしっかりと蹄の跡が残っています。塩竈神社から神明神社まで飛んできた際にできたものだと言われており、神明(しんめい)様または神馬(しんめ)様と呼ばれ古くから親しまれていたようです。私が幼少期に母から聞いた話が信じられず、付近にお住いの方にも実際に伺って確認しましたが、その言い伝えは実際にあるようです。
【写真】塩竈神社の蹄あと 【写真】神明神社の蹄あと  
【写真】塩竈神社からの眺め(正面に信夫山)
※ その昔、ここが島だったころは亀がたくさ んいたため“亀が森”ともよばれていました。
また、参道を登り始めの左右に大釜と大塩瓶があります。大釜は天文2年(西暦1533年)に上杉(謙信)軍が炊き出しに使用したといわれるもので、大塩瓶は永禄11年(西暦1568年)、川中島の戦い以降塩攻め(塩不足)で困っている甲斐武田方の庶民に上杉謙信が塩を送るために利用したものと言われており、それぞれ高さが2メートル近くあり、その大きさに驚きます。(参考:現地案内板)
【写真】大釜 【写真】大塩瓶
≪白和瀬神社≫
次に白和瀬神社ですが、日本武尊が東方征伐で海から上総(千葉県)付近に上陸する際に大変難儀されたため、その土地の名前をこの大笹生地区を訪れた際に残されたとされ、上陸の地“字浜渕”、風雪を凌いだ小屋“字雪小屋”、大笹生に滞在され「住めば都なり=居都(おりと)」から“(後に)字折戸”、毎日お茶のお供えがあったことから茶樹のあった場所を“字茶畑”と名付けたとされ、今もその小字名が残っております。尊が大笹生を出立されたのち、その高貴な御姿を思い隣接する山に烏帽子ケ嶽と名付けてお祀りしたとされています。
延長5年(西暦927年)に完成した延喜式神明帳(国内主要神社の名簿)に記載がある式内社で、信夫郡に5社あるうちの1つで農業の神様とされています。大化元年(西暦645年)には烏帽子ケ嶽頂上に鎮座しており、後に神様が白早秧(わせなえ=稲の苗)をくださって大豊作となったことから“白和世の神”として祀られたもので、会津若松市の矢玉遺跡からもこの文字が書かれた木簡(木の札)が出土しています。あまりにも険しい場所に社殿があったことから、天正年中(西暦1580年代)に現在の場所に遷座しました。
現在「県社」として祀られているこの神様の下で素晴らしい農作物がつくられ、今後ますます発展していく事を願っております。(参考:大笹生史、ふくしまの歴史、現地案内板)
【写真】県社 白和瀬神社 【写真】日本武尊像
≪寺院≫
皆様は最近話題となっている“御朱印帳”をご存知でしょうか。お寺や神社の印章を集める手帳のようなもので、各地の有名な寺社や複数の一連の寺社を“霊場巡り”として集める方も多いようです。その代表的な“霊場巡り”として「四国八十八ヶ所」がありますが、身近なところでは福島市、伊達市の観音様を巡る「信達三十三観音巡り」があります。
ここ大笹生には第九番札所の大福寺、第十番札所の安楽寺があります。大福寺は大同4年(西暦809年)に金剛山観音寺として建立され、当時は有名な観音霊場として知られておりました。現在も藁ぶき屋根の観音堂が建っています。安楽寺は天長7年(西暦830年)に定額寺として建立され、文治3年(西暦1187年)春に平泉へ向かう源義経が縁あるご本尊のために改めて御堂を建てて宿縁寺と命名し、その遺品として扇子が今も残るそうです。
また、福島市の天然記念物で樹齢約100年、樹高が20メートルを超す「大王松」と呼ばれる大きな松があります。大正3年(西暦1914年)に天皇御即位記念として植樹されたもので、一見すると杉に見違えるほど真っすぐに伸びる素晴らしい松です。(参考:福島市寺院名鑑)
【写真】大福寺(観音堂) 【写真】安楽寺の大王松
≪大わらじ奉納≫
福島市の夏の風物詩わらじまつりの由来となっている“暁まいり”。毎年2月に行われ、長さ12メートル、重さ2トンの大わらじが信夫山の羽黒神社に奉納されます。実は、この起源は大笹生の藪屋敷若連であると言われており、戦後の資材難、道中難所の早坂の七曲りを毎年少数人数で担ぎ上げるなどの困難を乗り越えて行われていましたが、地元の御山地区に譲り継ぐ昭和37年まで続けられました。地元大笹生でもあまり知られていない史実として残っています。(参考:大笹生史)
≪昔ばなし≫
“福島の民話”という本に「船のりの話」があります。この話、“武右衛門(史料では武左衛門とあり)”という船乗りが江戸へ米を運ぶ途中嵐に会い、清の国まで流され、およそ1年後に無事故郷に帰り、清の土産物を羽根通(はねとうし)の熊野神社に奉納したというものですが、この話にまつわる資料がありましたのでご紹介します。
(大笹生の)塩竈神社に所蔵されている『御尋付上乗武左衛門日記書上扣』という本人記載の書物がそれにあたります。これは幕府御用米輸送船の責任者だった本人が無事日本に帰国した際に、長崎の奉行、正木志摩守(まさきしまのかみ?)に提出されたもので、宝暦11年(西暦1761年)11月28日に宮城県の荒浜から出向後茨城県沖で遭難し、何人もの乗組員が亡くなるなど厳しい環境を乗り越えて翌年4月29日に“大清国南道州江南”に到着。清の役人などから様々な施しを受けて一切の取り調べの後、5月23日に清の港を出港し、7月25日に長崎港へ到着して取り調べが終わる12月8日までの出来事が書かれています。
民話には羽根通の熊野神社に清の土産物“蜀紅錦(絹織物)”を奉納したとあり、ネット検索を行うと大笹生の熊野神社が3つ確認できますが、いずれも羽根通ではなく、その土産物を見ることは不可能なのかもしれません。それでもこの文献が発見されたことを昭和33年(西暦1958年)9月3日の福島民友新聞に「200年前の漂流記発見」と採り上げられたとのことで、この昔ばなしの真実に迫ることができたことは本当に心が高鳴る良い経験となりました。(参考:阿武隈川の舟運と山田武左衛門漂流記/福島県立図書館蔵)
【施設】
≪道の駅≫
まずは道の駅ですが、工業団地と同様に福島大笹生インターチェンジに隣接して平成32年度末の開業を目指して整備される予定で、高速道路の結節点に位置するこの場所では福島市を含む県北地域、会津、米沢、相馬や白石など県内外の情報を提供する予定です。今年(平成30年)の10月上旬~11月下旬にかけて、東北中央道と道の駅を活用した地域活性化社会実験が行われ、各所の道の駅からバスを利用して上杉謙信を祀る上杉神社や南北朝時代の公家、北畠親房にゆかりの霊山神社を巡るコースが設定されると報道発表がありました。是非観光コースとして定着してほしと思います。
また、防災拠点としての機能を保持することで緊急時に備えるなど、観光振興と地域振興の両方を持ち合わせた施設となる予定です。(参考:「道の駅」整備計画、福島市ホームページ)
≪ふくしまスカイパーク≫
次にふくしまスカイパーク。スカイスポーツやモータースポーツと農業振興に関するイベントを開催し、近くには自動車レースを行うことができるサーキット場もあるなど、多くの市民や観光客が訪れる場所となっています。こちらのスカイパークも防災拠点としての活用が可能で、東日本大震災後の支援業務などで使用されたと記憶しております。
そして、ご存知の方も多いと思いますが、レッドブル・エアレース・パイロットの室屋義秀さんがこの空港を拠点として活動し、2016年の千葉大会では日本人として初優勝、2017年には年間総合優勝の偉業を達成しました。是非今後も大笹生の“本当の空”で技を磨いていただき、国民に夢と希望を与えていただきたいと思います。(参考:福島市ホームページ)
≪十六沼・十六沼公園サッカー場≫
十六沼公園サッカー場。人工芝サッカーコート2面、クレーサッカーコート1面を設置しており、休日はサッカーをする人々で大変にぎわっております。新たに天然芝サッカーコート2面を平成31年秋頃を目途に整備される予定となっており、更なるサッカー人気の高まりと、ここで練習を行っている福島ユナイテッドの益々の活躍を期待しています。(参考:福島市ホームページ)
その“十六沼”の名前の由来は、その昔、隣村の男と将来を約束した娘がその男に裏切られてこの沼に身を投げたといわれ、その娘が16歳だったことから十六沼と呼ばれるようになったとのこと(参考:大笹生史)ですが、他説では、堤に築堤の跡がうかがわれ、この辺りの湿地帯に16の小さな沼があり、それを1つにまとめて灌漑用水としたことから十六沼になったというものです。(参考:大笹生のあゆみ)
何がどう違ったのか、私の母からは、水を汲みに来た娘が沼の中に黄金色にキラリと光るものを見つけ、拾おうとしたところ、大きな沼の大蛇に食べられてしまい、その時の年齢が16歳だったと聞いていました。整備前の十六沼は木が生い茂って薄暗く、何とも近寄りがたい雰囲気であったことを覚えています。
【写真】整備された十六沼
≪JR赤岩駅≫
奥羽本線赤岩駅は大笹生にある唯一の駅で、以前から冬季期間は通過駅となっていましたが、2016年12月1日以降すべての列車が通過する休止駅となりました。休止駅をあえてご紹介するのは、この赤岩駅、いわゆる“秘境駅”として以前から知られていたためです。利用者が住んでいた李平(すももだいら)や赤岩などの集落が数十年前に無くなって山林化し、唯一残る大平(おおだいら)地区もほとんど居住者がおらず、駅からは急な林道を歩いて30~40分程登らなければなりません(おそらく車での通行は無理です)。大平地区は大笹生の中心居住区から車でも30分ほどかかる場所で、大平地区以外の人が実際に利用するのであればJR奥羽本線の庭坂駅や福島交通飯坂線の平野駅か桜水駅が最寄りとなり、休止駅となるまでの数年間の平均乗降客は0人でした。以前この駅で停車する列車は急勾配の板谷峠をスイッチバック方式で越えていましたが、現在は電車も改良されてある程度の勾配は登れるようになり、秘境駅には驚きの山形新幹線も通過するため、使われなくなったスイッチバックの線路跡、トンネルやホームなどの遺構、秘境駅と新幹線というミスマッチが鉄道ファンの興味を集めておりました。
電車で行くことが出来なくなって更に訪れることが困難になった赤岩駅が、近隣集落の歴史を語るうえで重要な施設として、また、鉄道ファン垂涎の駅としていつまでも残していただき、またいつの日か利用されることを期待しております。(参考:JR東日本ホームページ、ウィキペディア)
【写真】赤岩駅のスイッチバック線路跡(2016年7月)
【おわりに】
以上、雑多ではございますが、大笹生のご紹介をさせていただきました。子供の夏休みの宿題と一緒にこなす程度と思って書き始めましたが、始めてみれば大笹生にはこんなに深い歴史があったことに驚き、どんどん深く掘り下げてしまいました。(まだたくさんあるとは思いますが。)
近年は農業の衰退や人口減少による不安が言われておりますが、これまでにご紹介した内容や大笹生を訪れた皆様が実際に感じた事柄を要素として、“福島らしさ”を担う新しい大笹生がつくられていくことを楽しみにしています。
※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見
解を示すものではありません。
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